今治藩の種痘と松山

愛媛県医師会史 総合版』は、
松山における種痘の始まりは安政2(1855)年と記しているが、
もし松山痘社の種痘引札が嘉永3(1850)年に出されたものとすると、
その年代はさらに早まる可能性がある。
ちなみに、
安政2年の種痘は町医の池内蓬輔によるものとされているが、
その根拠となった資料ははっきりとしない。
あえて推察するに、
池内蓬輔による種痘書『散花養生訓』の刊行が安政2年であるので、
これを採用して種痘の開始と判断したのではなかろうか。
そうだとすると、
実際の種痘開始はそれよりも遡る可能性が十分にありそうである。


ところで、
松山藩を宗家とする今治藩における種痘の開始を見ると、
商館医モーニケがジャワ経由で
牛痘痂を取り寄せた嘉永2年になる。
今治拾遺によると、
長崎に入港したオランダ船が牛痘痂をもたらした情報は、
オランダの大通弁江川太郎八を通じて、直に今治藩医菅周菴に伝わったとある。
菅周庵は大坂の緒方洪庵も門人で、適塾には弘化3年5月11日に入門。
その後長崎でも蘭医学を学んでいる。
時期的に考えても、
牛痘痂が伝わる以前に、種痘の知識を十分に身に付けていた人物といえる。
そして、情報をもたらしたとされる江川太郎八も重要である。
この江川太郎八について調べてみると、
どうも今治拾遺の記述は不正確で、
オランダ通詞ではなく、
唐通詞の頴川四郎八のことではないかと思われる。
佐賀藩医の楢林宗建がモーニケの牛痘痂により種痘を成功させると、
頴川四郎八はその苗を得て、京都の日野鼎哉に提供し、
日野は除痘館を設けて普及をはかる。
その苗はさらに福井の笠原良策がその分配を受け、
大坂の緒方洪庵にも分配されている。
菅周菴は長崎に遊学していたため、
頴川四郎八とつながりがあり、
早い段階で牛痘種の情報を入手できたようで、
9月には長崎に赴き、持ち帰ることに成功している。
そのため、
今治藩は伊予の中では一番早く種痘が普及していき、
菅周庵と協力関係にあり、
種痘を行った半井梧菴の小傳には、
安政年間に今治藩では
疱瘡にかかる人をほとんど見なくなったことが記されている。
もしこうした今治藩の情報が松山にも速やかに伝わったのだとすると、
嘉永3年に種痘引札がつくられたとしても、
不思議とは思えないのである。


ただし、今治藩は種痘に藩として取り組み、
松山藩では民間の町医が手がけている。
前にも記したように
その中心には池内蓬輔と安倍允任の二人がいたが、
この二人がどのようなところで学んだ医者なのか、
全く分からないのが残念である。