種痘引札の文言

少し前に松山における種痘の普及として、
愛媛県医師会史 総合版』に紹介されていた
種痘の宣伝用引札のことを記したが、
ここで改めてその内容を口語訳すると、
以下の通りになる。


疱瘡を植え始めたのは、中国の宋時代のことである。
是は鼻に入れる方法であった。
その他植え方には5つの方法がある。
牛痘法はその中でも一番新しい方法で、
他よりも優れていて、よい方法である。
寛政年間に外国でイユルネンという人が初めて行った。
牛の乳を搾る家に疱瘡を病む人がいなかったことに着眼したことが始まり。
不思議なことだと思い、
牛の乳房を吟味したところ、疱瘡が2、3粒発疹していた。
その膿を取って、小児の手に移してみたところ、
その手のところだけに5、6粒できて、
他の場所に出ることはなかった。
その後また他の人の疱瘡をその子に植えてみたが、
発症することはなかった。
これよりオランダは牛痘法ばかりになっていった。
その後文化2年頃に中国にこの方法が伝わり、
中国に昔からある鼻に入れる方法に比べてみると、
格別に牛痘法が優れていることを医俗ともに知るところなり、
そのことを記した書物が中国から日本に渡ってきた。
当時は天竺をはじめ世界中が牛痘法だけになり、
それ以外の方法は廃れている。
仮痘といって疱瘡に似たものが出ることもあるが、
これは役に立たない。
もし仮痘ならば再び種痘を受けなければならない。
そのことを知らず、
種痘を受けたのに再び発症したと思う者がいる。
しかし、世の中にこの牛痘法ほど尊い方法はない。
そのためこの疱瘡種を40〜50年
前よりオランダ人が自慢して、
何よりの土産ということで、度々日本にもたらしたが、
気がぬけていて用いることができなかった。
しかし、去る秋にある大名の御骨折りで、
取り寄せられて世に広まったのは、
人の親の幸福、子たるものの幸運である。
世間の人々よ、
迷いを取り去って種痘をすれば、
早く安堵することができ、この上もない幸せとなるだろう。
  雪あられ余所にして咲鉢の梅
                 松山痘社


牛痘法は寛政年間に
イユルネンという人物が始めたと引札には記しているが、
正しくはイギリスの医師エドワード=ジェンナーにより
1796年に初めて実施されたことになっている。
イユルネンとジェンナー、
名前がかなり違っているが、
1796年は和暦になおすと、寛政8年であるので、
寛政年間に始まったという認識は正確である。
また、中国では牛痘法の以前、
鼻に入れる方法が主流だったと引札は記すが、
これは天然痘患者の膿を健康人に接種する人痘法の一種、
鼻種法のことを指している。
中国では文化2年に牛痘法が伝わり、
鼻種法に取ってかわられたことを引札にあるが、
調べてみると、
イギリスの東インド会社関係者が
1805年に広州や噢門で牛痘法により種痘を実施しており、
このことについても、引札は正確な情報を伝えている。
さらに、日本においては、
40〜50年前から疱瘡種がオランダからもたらされたが、
気が抜けて使えなかったと引札は続けるが、
これは、天保10(1839)年、
シーボルトの後に出島に来た蘭館医リシュールが
牛痘苗を持参したことを指すとすると、
40〜50年は遡り過ぎである。
そして、去る秋にある大名にお骨折りで疱瘡種が取り寄せられ、
全国に広まっていったと引札が記すのは、
佐賀藩鍋島直正藩医楢林宗建に命じて、
商館医モーニケと相談させ、
牛痘痂皮(かひ)をジャワから取り寄せ、
嘉永2(1849)年に息子建三郎ほかに接種して成功したことを指すのであろうか。
そうだとすると、
そのことを去る秋のことと記すこの引札の年代は、
嘉永3年と推定され、
約1年で松山に牛痘法が伝わったことになる。


引札の文章を改めて検討してみると、
引札の牛痘法への知識、歴史認識がかなり正確なものであることが分かった。
種痘の世界的な普及の過程については、
今回、田崎哲郎氏の「アジアにおける種痘」を参考にしたが、
田崎氏はこの論文の中で、
日本では牛痘が中国から44年遅れたことがプラスして、
在村蘭学の力もあって、
牛痘法の正確な知識が急速に普及したことを記している。
この一枚の引札も
まさにそのことを物語っているように思えてくる。