束の間の白米ブーム

車谷弘の銀座の柳 (中公文庫)を読んでいたら、
昭和16(1941)年11月の北九州で開かれた
文芸講演会の記述があった。
講演会で聴衆を大いに湧かせたのが、
竹田敏彦の演説。


私は八幡へ来て、
外米六割の御飯をたべました。
東京で自分達が喰っているのも同じ六割です。
八幡で働いている皆さん、
東京の住友さんも、岩崎さんも、
みんな同じ外米をくっているのです。
こんな、楽しい世の中がありましょうか


斎藤美奈子戦下のレシピ―太平洋戦争下の食を知る (岩波アクティブ新書)によると、
当時は白米ブームだった時期に当たる。
東南アジアから外米が輸入され、
安いお米が手に入り、
「三度三度、白いお米が食べられる」
という日本人が夢見た生活が到来した。
その一方で日中戦争が泥沼化したのもこの時期。
六大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜)では、
米の配給制度が始まる。
戦時下とはいえ、まだ比較的余裕もあり、
配給制度により農民でも労働者でも米が平等に配給される。
そのことが背景に、竹田の言になっているのだろう。


戦時情勢の悪化とともに、
外米の輸入はストップして、
昭和17年の夏には米の代わりに、
小麦粉・乾めん・乾パン・とうもろこし・さつまいも・じゃがいも・大豆
などの雑多な主食が配給されはじめる。
日本人の夢見た生活が送られたのは、
ほんのわずかな時期だったことになる。