松山における種痘の普及

前回は安倍允任(楳翁)の種痘について書いたが、
松山における種痘の普及については、
他にも何かの本で読んだはずと、
ごぞごぞ文献を探してみると、
愛媛県医師会史 総合版』に関連する記述を見つけた。
それによると、
松山の種痘は宇和島藩よりやや遅れて安政2(1855)年。
松山城下の町医池内蓬輔により初めて種痘が行われたとある。
池内蓬輔は『種痘小言』と『散花養生訓』という種痘書を著していて、
そのうちの『散花養生訓』のみが伊予史談会文庫で内容を確認することができる。
また、医師会史は、
蓬輔の後に安倍楳翁が大街道で種痘社を起こしたと記している。
安倍能成は楳翁を松山の種痘の元祖としているが、
池内蓬輔と安倍楳翁という二人の民間の町医から
松山の種痘が広がっていったことは確かであろう。
明治2(1869)年まで下ると、
種痘を行う町医はさらに増えていき、
船田玄徳、烏谷桃庵、津田玄昌、永井長元、丸山通玄などの
名前が種痘医として記されている。


ところで、
医師会史には、
啓蒙活動の一環としての宣伝用引札を紹介しているが、
一例として
桃太郎のような勇ましい牛痘児が槍を持って牛に乗り、
疱瘡魔の鬼を追い払っている松山痘社発行の引札を挙げている。
能成が記した引札に絵柄がかなり似ているが、
我が生ひ立ちに記された楳翁と直接結びつく文言は記されていない。
郷土史要という本は、
この引札を嘉永3(1850)年か7年かと推定しているようだが、
残念ながら年代の根拠ははっきりとしない。
能成が見たとされる引札との関連が気になるところ。