安倍允任(楳翁)の種痘引札

安倍能成我が生ひ立ち―自叙伝 (1966年)には、
明治時代の松山のことが記されているので、
一度は読んでおこうと思い、書棚の手前に置いたものの、
その厚みを見て積極的に取り出すこともなかった。
でも、ゴールデンウィークの暇な休みの徒然に、
最初の数頁を読んでみると、はやくも見逃せない記述を発見。
といっても、
他人にとってはどうでもいいようなことなのだが…


安倍能成の生まれた家は町医者で、
祖父は松山藩で種痘を手がけた元祖だったそう。
祖父の名前は安倍允任(かずとう)、号楳翁。
桑村郡中村の安倍僖任の次男で、
嘉永5年に松山に在住、
明治3年9月9日に士族医師として召し出され、
御切米12石高2人扶持を与えられている。
允任の町医者としての事績として、
注目されるのが松山で種痘を実施したこと。
能成は種痘を広告する
祖父の引札を見たことがあると記している。
引札には牛が描かれており、
その牛には「散華妙手」の旗を手にした子どもが乗っている。
そのまわりには、
蔭高という署名に、
「力ある安倍牛こそは牛起せおこしたりけりううるわざをも」
という歌が書いている。
あべうしとは松山では赤牛のことを言うそうだが、
そのあべうし(赤牛)と祖父安倍允任の種痘(牛痘)をかけた言葉になっている。
能成は允任の種痘を讃えた内容と読み取っている。
その歌の脇には
「伊予松山牛痘種開祖安倍楳翁」とあり、
さらに三つ歌のようなものが添えられている。
「植てより日数八日はもち玉子大豆酒鯛それらみなよし」
「灸ゆあみ髭そることも植てより十五ケ日はゆるさゞりけり」
「鳥けもの青魚酢酒油けはすごしはわろし二十八日」


幕末期、
種痘を広めるためにこのような引札が全国的につくられていた。
そこには種痘の普及に苦闘する町医者の姿が見出せる。