布清恭の鬱屈

前回取り上げた大洲藩医山本有中は、
宇和島の町医者布清恭が、江戸の村田蔵六に宛てた書簡にも登場します。
布は文政5(1822)年に
宇和島藩領の近永村(鬼北町)の農家に生まれ、
大坂・京都・長崎と、
医者の下男をしながら独学で医学と蘭学を学び、
蘭方医となったユニークな人物です。
村田蔵六は言わずと知れた、後の大村益次郎
村田は嘉永6(1853)年に宇和島藩に雇われ、
蘭学教授、軍艦建造に当たっています。
布は村田の宇和島時代に蘭学を学んでおり、
手紙を交わしたものと考えられます。
布の手紙には年代が記されていませんが、
関連の資料から安政3年と推定することができます。
手紙の内容は、既に近藤俊文氏により
村田蔵六二題」(『よど』第6号)として紹介されていますが、
以下に分かりやすく口語訳してみます。


…(前略)…
先生の御近況は如何でしょうか。
幕府に御出仕なさるとの噂も聞き、大いに歎息しています。
なにとぞこの小国(宇和島藩)に
これまで通り御滞留下さることを願っております。
さて、先日申し上げた
ハンデンブリュックの窮理書のことですが、
薩摩から写本が出されたので、
急ぎ江戸に送らなければ値段が下落してしまうとのことで、
いろいろ心配となり、
ようやく先だって江戸の松根様のもとに送ったところです。
その時に手紙に書きましたが、届いていますか。
松根様(宇和島藩家老)からはとても元値では売れないだろうと聞きましたが、
実に値段が下落したことですが、
少しもご心配なく、確かな購入先が見つかったら、
お売りいただきたくお願い申し上げます。
何分貧しい書生のこと、
書籍を長く所持することもできず、
ぜひとも売る以外にはないのです。
でも元値とあまりに違うようなら、
売ることはお止めください。
元値ぐらいでは売れるかと、
実はこの本は一読もしないまま江戸に送りましたが、
買う人がいないようなら仕方がないことですので、
先生のお考えにお任せしたいと思います。
他の人から申し入れがあっても書物は渡さず、
村田先生からの申し入れがあったら渡すように、
松根様には言ってありますので、
なにとぞ書物の売却をお世話いただきたくお願い申し上げます。
私は相変わらず多病で、
いろいろと忙しく暇なしなので、読書ができません。
フーフェランドの翻訳原稿の刊行についても、
大洲藩医の山本(有中)氏より先に願いが出されていたので、
私が藩庁に出版の許可を得るために提出していた
翻訳草稿を願い下げに行きました。
きっと先生にも近い内に何らかの御沙汰があるのではないかと思います。
いかがでしょうか、またご様子をお知らせください。
もはや何事も思ってもいないことばかりで、
大いに屈志(鬱屈)しております。
この上はただ治療の賢者にもなる外は仕方ありませんが、
元来治療はあまり好きでないのです。
しかしながら、飢寒の患者がいるので、やむを得ず奔走しております。
唯今、私の一家には14の口があるのです。
どうぞ御憐察ください。


布は先にも書いたように農家出身で、
独力で這い上がって医師になった人物。
出身の農家の経済力は分かりませんが、決して恵まれた境遇ではなかったのでしょう。
そうした布が、勉強を続けていくのには大変な努力が必要だったようです。
手紙では、蘭書であるハンデンブリュックの窮理書を折角購入したのに、
その後薩摩から写本が出ると、
値が下落するまでに売らなければと奔走しています。
自転車操業的に蘭書を買い、
写本をつくったり、翻訳しては売り払い、
次の蘭書を買うようにしていたのでしょう。
後段にはフーフェランドの翻訳原稿のことも出ています。
兵頭賢一の『伊達宗城公傳』によると、
安政2年7月に布はヒュヘランド(フーフェランド)の
ヱンシリシヲンメシキュムの翻訳を終わり、
他に翻訳者がいないようなら、
出版したいと宇和島藩に伺いを出していますが、
この手紙では、
大洲藩医の山本有中がそれよりも早く出版の願いを出していたため、
その伺いを取り下げることになったことが記されています。
この時期は蘭書の翻訳戦争のようになっており、
いつもわずかに遅れをとってしまう布の鬱屈が伝わってきます。
また、布が患者を治療する臨床医としての
仕事が嫌いだったというのも意外なところ。
患者の治療などを行わずに、
蘭書の翻訳などに専念して自分の名が記されたものを刊行したい
というのが布の願いだったのでしょう。