大洲藩医の解剖

『大洲医史』によると、
伊予における初めての解剖は、
文化10(1813)年に行われた模様。
次で文化13年にも行われているようですが、
詳細は不明なようです。
解剖が記録として残るものとしては、
華岡青洲に学んだ大洲藩医鎌田正澄が行った、
弘化2(1845)年の解剖があげられます。
執刀は鎌田正澄が行い、養子の鎌田新澄をはじめ、
門人の松澤載清、樋口量春、糸川維寧、松岡公正、岩井重長が助手をつとめています。
この解剖の成果は、大洲藩絵師若宮養徳の門人服部正忠が描いた「解剖図」としてまとめられています。


また、宇和島藩では、
文政8(1825)年9月17日と10月9日に、
藩命により猿の解剖を行っています。
解剖を行ったのは、
松本意仙、土倉長貞、富澤道龍、浅野歓喜、富永斗門の5人の藩医
このうち、
富澤道龍は大槻玄沢(文化3年)、
浅野歓喜華岡青洲(文政6年)、
富永斗門は華岡青洲天保4年)、
にそれぞれ入門していることが分かっています。


ところで、先般購入した
荒川ふるさと文化館の
企画展図録『杉田玄白と小塚原の仕置場』を見たところ、
大洲藩医が江戸での解剖に携わっていた記事を発見しました。
『日本近世行刑史稿』(刑務協会、1943年)に所収されている資料で、
加藤遠江守医員山本有中と松平大膳太夫医員田原玄周が、
医術修業のために死罪の罪人を小塚原で腑分け(解剖)したいと願い出たというもの。
この願書が記されたのは、嘉永元(1848)年11月。
山本有中は大洲藩医、田原玄周は萩藩医で、
いずれも蘭方医の伊東玄朴の門人なので、
江戸で蘭方医としての修業中に解剖を願い出たものと考えられます。
山本有中の事績としては、
安政5(1858)年に「扶氏診断」3冊を翻訳刊行したことが知られていますが、
江戸で解剖を行った可能性があることが、
この資料で分かりました。