江戸時代のゆるい時間

今日も大和田建樹の
「紀行漫筆したわらび」(明治35年刊)から。
時計がない江戸時代、
宇和島ではどのようにして時間を知っていたのか、
という子どもの問いに建樹先生が答えます。


時間ごとに城の屋倉にて太鼓打ちて知らせしよ。


子どもはその答えを聞いて、
まるでお相撲みたいと笑って、
さらに太鼓を打つ人はどうやって時間を知っていたのか、
とさらなる質問を放ちます。
建樹先生はこれにも泰然自若として答えています。


大きなる角火鉢に溝をつけて香をもり。
其燃えて行く道に九つ時八つ時七つ時などいふ札をたておき。
そこまで火が来れば。
其時刻ぞと知りたるなり。
されば雨の日は香しめりて一時間長く。
快晴の火は短きをもしからずや。


この答えに子どもは面白がって、
なおもその話を聞きたいと話した
ちょうどその時に柱時計が午後の10時を打ち、
子どもは寝る時間、この話はお終いと切り上げます。
江戸時代は不定時法といわれますが、
建樹先生の話にもそのアバウトさが伝わってきます。
建樹先生はその10時の柱時計の音を聞いて、
さらに思い出します。


九月中頃なりしが。
母君と四つ時。
すなはち今の十時うちたらば寝んといひゐたるに。
待てども待てども太鼓きこえず。
母君さては芝居のある故ならんと。
宣ひし事ありき。
其時は何事とも知らざりしかど。
後に聞けば。
夜芝居は四つ時までが制限なれば。
興行中なれば。
興行中には賄賂つかひて。
時の太鼓を延ばしてもらふ習ありとか。


そういえば、
以前に明治4年の宇和島の三浦義質が東京の徳義に宛てた手紙に、
県になって規則が緩み、
芝居が夜遅くまでかかるようになり、
夜店も四つ(午後10時)を過ぎても営業していることが記されていましたが、
このように藩政時代には芝居は四つまでという規則があったのは確かでしょう。
また、賄賂を使って引き伸ばし工作をするというのも、
以前江戸屋敷の門限を書いた時に、
和歌山藩士の酒井伴四郎が賄賂を渡して門限破りをしていることにも
共通した発想といえます。
江戸時代の時間の観念がアバウトなことに眉をひそめる人もいるかもしれませんが、
じゃあ1分1秒をつきつめて生活する現代社会が健全なのかという感じもしてきます。
時間に追われる日々を過ごす自分にとっては、
こういう建樹先生のゆるい話しに、ある種の安らぎを感じるのです。