英国軍艦よりガラス壜をもらう

慶応2(1866)年、宇和島には二度にわたり
イギリス軍艦が来航しています。
最初は慶応2年6月のイギリス公使パークス、
もう一つは先に触れた12月のアーネスト・サトウ
イギリス軍艦の二度の来航は、
宇和島の人々にどのように受けとめられたのでしょう。
安政4(1857)年に宇和島藩士の家に生まれた大和田建樹は、
「紀行漫筆したわらび」(明治35年刊)に、
幼少の頃の記憶として次のように記しています。


英国の軍艦。
わが故郷の宇和島に来れる事ありしが。
人々その舟を見物に行けば。
水兵どもはガラス壜を一つづゝくれたり。
底のあがりたるこそ珍しけれとて。
持ちかへりては花をさすもあり。
桃の節句に白酒いるゝもありき。
あはれ貧者の買ひあるくビールの明壜。
かくまで歓迎せらるゝ折もありしよ。


軍艦の水兵と庶民とに
ガラス壜を通じた交流があったことがうかがえます。
明治30年代ともなれば、珍しくもなかったのでしょうが、
当時としては超高級品。
もらった当初は大歓迎だったのでしょう。


また、大和田建樹の文章以外にも、
軍艦を見物にきた人たちは、
軍艦からビールの空き瓶を投げたのを、
先を競って拾い上げ、
家に持ち帰って桐の箱に入れて、
「ギヤマン徳利」として家宝としたという話しも伝わっています。
イギリス軍艦の来航は、
かなりのインパクトとして宇和島の庶民の記憶に遺り続けたのでしょう。