宇和島藩士の中級武士である三浦家の文書について研究している。
そのなかで、5代当主義陳(よしひさ)の長女ほのに注目している。
ほのの生年は不詳。
宇和島藩士下山猪右衛門と結婚するも離縁。
その後宇和島藩に奥女中奉公に出て、
明和元(1764)年3月1日に宇和島で生まれた
5代藩主伊達村候の六女寛姫に仕える。
そして、明和5年3月1日に寛姫が江戸屋敷に移ると、
ほのも江戸詰めとなり、安永元(1772)年までの約5年間を江戸で過ごしている。
宇和島に戻りその翌年に宇和島藩士杉山覚右衛門の長男平学と再婚。
没年不詳。

これまでこのぐらいのことしか分からなかった。
ただ、江戸時代の武士の女性のことは、分からないのが普通である。
当主の事績については、いろいろ文書を残していても、
家を陰で支えていた女性の姿は文字に残されないものである。
そんななか、ほのが江戸で奥女中奉公している間のことは、
義陳はほのにあてた手紙がたくさん三浦家文書に残り、
ある程度のことが分かっただけでも幸運だったといえよう。
その後も、三浦家文書のなかのどこかにほのの姿がないか探し求めつづけた。
するとこれまで見落としていた
「世々之形見 後編」に収められた一通の手紙が目にとまった。
手紙は三浦義陳の妻である幸が松根備後の妻に書き送ったもの。
手紙の内容を口語訳して示すと、以下のとおり。


時分柄冷たくなってきましたが、
あなた様をはじめ皆様方が変わりなくお過ごしのこと、
大変おめでたいことと存じます。
また近いうち備後様が江戸からこちらにお戻りになるとのこと、
さぞお戻りをお待ちになっていることでしょう。
さて、既にお聞き及びのことと思いますが、娘ゆうのこと。
思いがけないことに御休息所(大奥)に召し出されることになり、
大変ありがたいことと存じます。
しかし、普通に育てた娘なので、
殿様の御側近くに差し出すことは大変畏れ多いことです。
何度も辞退したいと申し上げようとしましたが、
これまでもお断りばかりしてきたことなので、
お受けしたいと申し上げようと思います。
どうぞ私の心配を察してください。
同僚の方々はきっとゆうをいろいろとおひきまわしやお差図くださることと存じますが、
全くなじみのない方々ばかりなので、
清見殿にひたすらおゆうのことをお頼み申し上げる次第です。
私からは手紙を出すことは難しく、お頼みすることも難しいので、
どうぞあなた様からよしなに申し上げてください。
ゆふのこと、いろいろとお世話くださるようお頼み下されば、
どんなにかかたじけないことと存じ上げます。
いろいろおひきまわしくださることと察しますが、
娘は本当に不調法もので、お世話になることばかりで、
皆様のご厄介になることと思います。
家から手放して差し上げるような者ではありませんので、
どうか私のこの心配を察してください。
現在主人の平治左衛門(義陳)は留守中。
何かと相談することもできかねるので、
慮外ながら手紙でいろいろと申し上げました。
なにとぞなにとぞよろしくお頼み申し上げます。
ゆふにもくれぐれも清見様をお頼りするよう申し聞かせます。


手紙には藩の方から話しがあり、
ゆふの奥女中奉公が決まったことが記されている。
そして、このゆふという人物、
別の資料から実はほのと同一人物であることが分かる。
義陳の妻は、ゆふが奥女中としてちゃんとやっていけるように、
奥女中の清見によろしく取りはからってくれるよう、
この手紙で松根備後妻に頼んでいる。
義陳が留守中であるため、
妻の幸は娘を奥女中に出すあたり、
ひどく心配していることが手紙からはうかがえる。
そこで、奥女中の清見とおそらく何らかの関係があった
松根家からの働きかけを依頼したものと思われる。
手紙が出された時期は、
義陳の妻が明和2年に亡くなっているので、それより前であることは明らかである。
それに近い時期で義陳が不在なのは、
宝暦10(1760)〜11年の江戸詰めであることから、
その時期にゆうが奥女中に出ることが決まった可能性が高い。
ここからはあくまでも推測であるが、
宝暦10〜11年にゆうは宇和島藩の奥女中として働き、
その後宇和島藩士下山猪右衛門と結婚(時期不詳)。
離縁の後、再び以前の経験を活かして宇和島藩の奥女中となり、
江戸で有能な奥女中として働く。
そして、そのキャリアが認められ、今度は杉山平学と再婚。
こんなプロフィールが、新たに見つかった手紙から見えてくる。
江戸武士の家に生まれた女性の姿が少しずつ浮かび上がりつつある。