さて、宇和島藩士三浦家の7代当主三浦義信。
天保7〜8年に三浦義信は参勤交代のお供で江戸に滞在中。
江戸滞在中の様子は、自らが妻久美に宛てた手紙と、
義信に同行した四男の栄の日記により詳しく分かります。
それらの資料を用いて、
天保7年10月24日の義信の行動について。


この日、義信は明け番で、
五ツ半(午前9時)過ぎに御殿から下り、
八ツ(午後2時)前には愛宕神明辺りに外出している。
なお、四男の栄と上原家に養子に入った次男の直次郎は別行動。
二人は浅草両国辺りへ外出し、帰りがけに薬湯に行き、
暮れ前に帰ってきている。
この日は天気がよく、秋であっても小春日和。
義信は江戸の町の気持ちよく歩いたことでしょう。
愛宕様は祭日でとってもにぎわっていて、
いつものように数々の物売りがでています。
植木類や鉢植えなど珍しいものがたくさんでていて、
福寿草などはもう咲いています。
今年亡くなった村寿が生きていたなら、
献上したいものがいろいろあるのに思う義信でした。
その帰り義信は同じ宇和島藩士の
九郎左衛門、蔵人、しよふ蔵、たくま、ごん内に出くわし、
「これはめずらしい、一緒に行きましょう」と言われ、
いやとも言えず神明様へ同道します。
しんざ親子とも出会い、
これもまた同道することになります。
結局通りにあった料理茶屋にあがり、
もう日も下がり、夕方にもなりかかっていたので、
義信と蔵人、しん介は酒を飲み、
九郎左衛門らの下戸の面々は御飯を食べるなど、
二派に分かれました。
そして、ようやく暮れ前に帰ることになりました。
義信は今度の江戸詰めで初めて料理茶屋で
多人数が寄り合い、気晴らしになったと記しています。
でも、門限が近づいていたためか、
帰りはかなり急いだようです。


愛宕山は江戸でもっとも高い山。
高さは26メートルで、
江戸時代には東京湾から房総の山々までが一望できたそうです。
愛宕神社の祭日にはたくさんの出店がでていたようです。
その中には植木や鉢植えを売る店がたくさん。
義信は文政7年に隠居した6代藩主伊達村寿に付き、
村寿が亡くなる天保7年まで側勤めをしました。
その村寿が大の園芸好き。
義信は村寿が生きていてこれらの鉢植えを見たら、
どんなに喜んだかと思ったことでしょう。
義信が園芸に興味をもったのも、村寿と影響かもしれません。
愛宕神社の出店で売られていた福寿草は、
青木宏一郎氏の江戸のガーデニング (コロナ・ブックス)によると、
正月になると鉢物として出回り、
葉よりも黄色い花が先に咲く植物。
栽培は比較的に簡単で、鉢植えにも路地栽培にも適したそうです。
江戸時代、他種との交雑なしに百以上の品種がつくられており、
希少性があり高額で売買され投機の対象ともなったので、
金生樹とよばれたものの一つです。
金生樹って読めますか?
ずばり「カネノナルキ」と呼ぶそうです。
どうも村寿と義信は二人ともこの金生樹に熱中したようようです。
義信は愛宕様の帰りに他の宇和島藩士と出会い、
料理茶屋に繰り出し、お酒を飲んでいます。
愛宕神社正面の男坂を上ったあたりには、
多くの茶屋が軒を並べていたというので、
そのうちの一軒に入ったものと思われます。