一の重です。
今日は休日。
午前中マッサージに行き、
午後から子どもを習い事に宇和島まで送る。
その空き時間、宇和島の本屋をまわるも、
欲しかった新刊は見あたらず。
東京の書店ではもう販売されているのでしょうが、
地方に住むと新刊が流通するまで、
都会とやや時間差があるように思います。
どうせすぐ読むわけじゃないのですが、
手に入らないとなると欲しい気持ちは募ります。


それはさておき、
寛延4年2月1日の夜の宇和島大火で、
家が焼けてしまった三浦家。
宇和島にいる隠居の義伯とその妻が連名で、
江戸の義陳に出した寛延4年3月23日付の手紙の続きには
さらに次のようにあります。


今泉市太夫殿が最近も度々いらっしゃり、
現在生活が厳しいかどうか、
何月くらいまで生活が保てそうか、
秋まではなんとかなりそうか、
申し出るように話しがありました。
私の方では、
平治左衛門(義陳)の留守中に
少しずついただいた手当や組合から借用した分で、
現在何とか暮らしていることを申し上げました。
江戸のご出発のことをお尋ねしたところ、
平治左衛門は少なくとも五月中には
こちらに戻れるだろうとのことでした。
そこで、五月中までは難儀しつつも、
何とか暮らしていくつもりだと話しておきました。
そして、平治左衛門が宇和島に帰る旅費として、
米10俵の代金として銀300目を江戸に送るところ、
火事で一朝の煙となり一銭も送金できなったことを話しました。
平治左衛門もきっと江戸で借金してでも帰ってくるが、
帰ってきた月からして飯料や小遣いの心当たりがないことも話しました。


7回にわたり三浦家を襲った火事の話しを書いてきましたが、
そこからは武士の生活の内実が見えてきました。
火事がもともと厳しかった三浦家の暮らしに追い討ちをかけています。