一の重です。
昨日の予告どおり、
火事の話しの続き。
寛延4年2月1日の夜の宇和島大火で、
家が焼けてしまった三浦家。
火事は三浦家の家計も圧迫します。
当時、当主の義陳は参勤交代で江戸に出府中ですが、
消費社会である江戸での暮らしには日々お金が必要ですし、
宇和島へ帰る旅費も準備しなければなりません。
宇和島の家族は何とかお金を掻き集めて送金しようとがんばります。
その様子がうかがえる
手紙が前回の手紙の2日後、
寛延4年3月23日付で出されています。
この手紙は隠居の義伯とその妻が連名で、
江戸の義陳に出したものです。
以下、その手紙の内容。


あなたが江戸から帰ってくる費用するため、
米10俵を物置に入れて置いたところ、
この火事で1俵も残らず焼失してしまいました。
こうなった以上、
そちらに送金できず残念で仕方がありません。
そこで、喜内(義陳弟)と又左衛門殿と相談して、
又左衛門殿のおかげで金3歩を喜内より送ることになりました。
その他に銀14匁余りも、これも又左衛門殿のお世話で、
喜内から大坂の藤左衛門殿と伴右衛門殿に送ることになりました。
どうぞお受け取りください。
余計に送りたいと思い、いろいろ工面しましたが、
これ以上はどうしようもありません。
あなたの方で購入していただきたい品物を記した書付を送ります。
蚊帳と挟箱など火事の時に持ち出すことができたものは除き、
又左衛門殿、喜内、お幸(義陳妻)などと相談の上決めました。
大坂でご購入いただけたらと思います。
夜具は大体は持ち出すことができたので、
お城から取り寄せなくても済んでいます。
その他、衣類や着替えなども大方は持ち出せたので
困っていません。


三浦家にとって、
物置に置いていた米が焼けてしまったのは
さぞ悔しかったことでしょう。
その米を売った代金を
義陳の江戸費用や旅費にあてようとしていたのに、
その計画はだいなしになってしまいました。
そこで宇和島の家族は
いろいろなツテをたよってお金を集め、
義陳のもとに送金します。
ただし、そのお金は義陳の江戸費用と旅費だけでなく、
義陳が宇和島に戻る際に、
大坂でこれからの生活に必要な物を
購入してくる費用も含まれていたようです。
手紙からはお互いを思いやりつつ、
この苦境をのりこえようと
懸命にあがく家族の姿が見えてきます。