一の重です。
今日は早速昨日の続き。
寛延4年2月1日夜、
宇和島は大火に襲われます。
この時宇和島藩士三浦家では、
5代当主の義陳は参勤交代で江戸にいます。
宇和島に残された家族は、
4代当主で隠居の義伯、その妻、
義陳の妻お幸、長男豊八郎、長女おゆふ、次女おるいの6人。
残された家族に火の手が迫ります。
老夫婦に3人の子どもを抱えた妻お幸。
ここからお幸の獅子奮迅の働きが始まります。


お幸は、箪笥の着物や子どものものなどを蚊帳に入れ、
なつ(下女カ?)に妙典寺へもたせました。
わたしの着る物も少しと蚊帳に入れた布も
なつに妙典寺へもたせました。
おやじ様(義伯カ?)の着る物も夏冬とも取り揃えて、
玄関までは出しましたがどうしようもなくそのままにして、
おゆう(義陳長女)の手をひき、とよ(義陳長男豊八郎カ?)を連れて
家を出ようとしたところ、もはや火は迫ってきます。
ちょうどその時に軍右衛門殿と喜内(義陳弟)が到着し、
おかげでやっとのこと、おやじ様の着物なども外に出してくれました。
鍋や釜は俵に入れて軍右衛門殿が井戸の中に入れてくれました。
お幸のふるよき(古夜着)なども市助に妙典寺へもたせました。
吉田からも人が三人駆けつけてくれましたが、
間に合いませんでした。
御船手の長之允も同じく駆けつけてくれましたが、
こちらも間に合いませんでした。
屋敷は焼けてしまいましたが、
人は命さえあればなんとかなるものですので、
なんの心配もいりません。
これから先、さしあたり何の不自由もありません。
吉田與右衛門殿がとてもよく世話をしてくれて、
白米やその他いろいろいただき、
お幸と私へは櫛道具をいただき、
これでさしあたり必要なものは揃いました。


以上は、寛延4年3月21日に
義伯の妻が息子の義陳にあてた手紙に記されている
火事当日の模様です。
火事の時にまず持ち出すものは衣類。
緊急避難時には蚊帳に入れて持ち出すようです。
鍋や釜は俵に入れて井戸に吊すのも、
当時の火事の作法なのでしょうか。
火が迫るなか、
お幸は子どもを連れて懸命に対処している様子がうかがえます。
末っ子のおるいはどうしていたのでしょうか。
さいこうじ(西江禅寺)に避難した義伯夫婦に預けたのか、
あるいは背中に負ぶっていたのでしょうか。
頼りの夫が不在で、火事に遭ったお幸の心細さは思うと、
察するに余りあります。
いずれにしても、
大事にしていた屋敷は焼け落ちます。
命は助かったものの、
家をなくしたこれからの暮らしをどうするのか不安は募ります。