江戸武士のすまい4

一の重です。
今日もいやいや出勤。
それでも仕事を進めようとしゃかりきに進む。
その中で私にいやな思いをさせている首謀者が発覚。
いろいろ思うところがありますが、以下………


今日も武家のすまいの話し。
パソコンに残るいろんな文章をあさっていると、
以前松代藩士横田家について書いた文章が見つかった。
ここにのせるような文章ではなく、
単なる心覚えとして当時書いたものですが、
今日は何も書く気力がないので、このままのっけておきます。


先日長野を旅行する機会があった。
その際少し時間に余裕があったので、松代を散策した。
松代は行政上現在は長野市のなかに組み込まれているが、
江戸時代は大名真田家の城下町であった。
町には真田家の大名道具を展示した真田宝物館をはじめ、
真田家の居宅であった旧真田邸、
松代藩の藩校であった旧松代藩文武学校の建物などがあり、
見どころが多い。
そのなかでも、特に興味深かったのが旧横田家住宅であった。

横田家は150石取りの松代藩のなかでは中級の藩士で、
現在我々が研究している宇和島藩士三浦家と
ほぼ同格の家と考えることができる。
ちなみに、松代藩真田家は
宇和島藩伊達家と同じ10万石の大名という共通性もある。
宇和島の場合、戦災などで武家屋敷が遺っておらず、
三浦家がどのような家に住んでいたか手がかりはないが、
そのイメージを膨らませる上で、
同じ規模の大名で同程度の家格である横田家を借りることは許されよう。
以下、そのような観点から、
パンフレット及び住宅内の説明板をもとに
横田家住宅について若干の紹介を試みる。

まず道路に面して表門がある。
天保13(1842)年建築の切妻造・桟瓦葺の長屋門で、
門の右側に10畳、左側に8畳2室をとり、
道路に面して10畳に格子窓、
8畳2室には与力窓がついている。
各室とも入口は板戸引違いとし、
門をくぐった裏側には格子窓がついている。
天井はなく、床は板敷きで「ねこ」と呼ばれる大型の筵を敷いていた。
門の板開き戸は両開きで、閂で施錠した。門の左側にはくぐり戸がついている。
この表門をくぐると、左前方に主屋がある。
主屋は寄棟造、茅葺、庇は板葺で、
寛政6(1794)年の建築である。
正面突き出た式台付玄関が目につく。
板敷きの部分が敷台で、来客の際の出迎え、見送り、
あいさつの場所として用いられた。
玄関の右側には土間の大戸口が開いている。
玄関裏の15畳は小屋裏まで吹き抜けとなり、
土間、勝手とつながっている。
奥の池に面した座敷12畳には
一間半の床の間と棚、仏壇が設けられ端正な意匠がみられる。
間取り、規模、柱間の狭い点等は
松代の武家屋敷の一般的形態を示しているという。
主屋の左側には隠居屋がある。
寄棟造、茅葺で、
文政3(1820)年頃の移築と考えられる隠居屋は、
柱が主屋より細く、簡素な造りとなっている。
手前の板の間が勝手で、中央やや手前に石製囲炉裏があり、
さらに勝手の奥は2室続きで、8畳の座敷6畳の居間となっている。
松代の典型的な隠居屋の姿である。
次に表門をくぐってすぐ右の塀をくぐると、
主屋の右側に出る。
そこでは煮炊き、暖房に使う薪が積み上げられている他、
ちょっとした花壇になっており、季節の草花が植えられている。
さらに、主屋の裏側にまわると土蔵が二つあり、
その先に菜園が広がっている。
菜園は約300坪の広さがあり、野菜を中心に横田家の家来が栽培した。
菜園の左側には泉水路が走っており、
主屋裏の庭園の泉水へと流れ込んでいる。
庭園に流れ込んだ水は、
一方は勝手へと行き鍋や釜等を洗うのに利用され、
もう一方は元の泉水路へと戻り、別の武家屋敷へと流れていく。

松代の武家屋敷にはこうした泉水をもつ庭園が数多く残されているというが、
横田家住宅の庭園も、座敷に面して泉水を配し、
左手奥に築山、右手に南庭、
そして遠く見える山々を借景としたなかなかのものである。
横田家住宅をぐるっとひとまわりしてみたが、
表門、主屋、隠居屋など建物が保存されていることもさることながら、
泉水を配した庭園をはじめ、
塀で仕切られた庭、菜園などの細かい要素も含めて
幕末期の武家屋敷の姿が完全に残っていることに驚きを感じる。