描かれた戦国の京都

京都文化博物館で展覧会「京を描く−洛中洛外図の時代−」を見てから、洛中洛外図の時代的な変遷を大まかにつかみたいと思って読書。

描かれた戦国の京都―洛中洛外図屏風を読む

描かれた戦国の京都―洛中洛外図屏風を読む

本書は、吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」の1冊として依頼されたものとのこと。図版が多く掲載されているため、図版を大きく見せるためにA5判の単行本に体裁を変えたそうだが、一般向けにわかりやすく書いたということなので、とっかかりとしてはぴったり。

洛中洛外図は、江戸時代前期のものを中心に100点余り現存するとされているが、今回は景観が室町時代まで遡るものが取り上げられている。ちなみに京都文化博物館の図録では、洛中洛外図屏風一覧として、168点のリストが掲載されている。毎年のように新たな洛中洛外図が発見されて、現在はこれくらいの数は確認されているのだろう。このリストだけでも、この図録は買う価値あり。

それはさておき、本書で取り上げられている屏風は、著者が考えている時代順に並べると、「歴博甲本」、「東博模本」、「上杉本」、「歴博乙本」である。それに永正3年(1506)の三条西実隆日記に登場する、越前の戦国大名朝倉氏が発注して、土佐光信が描いた洛中洛外図。これは現存しないが、この朝倉本の内容も視野に入れながら考察が進められている。著者の視点は、それぞれの屏風がどのような政治的な主題を背景に生み出されたのかという点に注がれている。京都文化博物館の図録には、同じ著者による「それは誰が見たかった京都か−構図に見る洛中洛外図屏風の系譜関係−」が掲載されており、本書の内容がコンパクトに再整理されているが、それを活用すると、以下のようにまとめられる。

歴博甲本−細川高国が見たかった京都−狩野元信
東博模本−阿波細川氏が見たかった京都
上杉本−足利義輝が見たかった京都−狩野永徳
歴博乙本−京都が見たい人が見たかった京都−狩野松栄、宗秀

そして、江戸時代に入ると、左隻の中心を二条城にする、徳川の時代にふさわしい新たな定型が生まれるが、こうした政治的な主題は、二条城への後水尾天皇行幸寛永3年)を最後に次第に比重が下がり、町並みの描写も形骸化が進み、名所図としての比重が増していく。洛中洛外図の多くが、形骸化が進む江戸以降のものといえるだろう。著者は洛中洛外図の系譜(関係性)を重視して読み込んできた研究者だけに、入門書としては最適といえる。

また、洛中洛外図に限らず、都市図について考察した次の文章は鋭いと思った。忘れないようにメモ。

洛中洛外図屏風が初めて世に現れた十六世紀初頭から、江戸図屏風が描かれた十七世紀前半までの間は、まさに日本における都市建設の時代だった。今日に残る都市の多くがこの時代に起源を持ち、ないしは京都のように現代に続く形に改造されたことを考えれば、そのことは容易に理解されよう。都市が近世に向かって新たな発達を遂げ、あるいは城下町などとして新たに建設されていった時代、人々の目は新たな都市の姿に集まり、またそれらの都市を支配する権力者たちは、そのことを誇り、描かせようとした。これが、洛中洛外図屏風以下、江戸図屏風に至る一連の都市図屏風、特に「権力者とその都市」の屏風が描かれた理由であり、それはそのような歴史的背景を反映して作られた屏風であった。

都市図屏風の出発である洛中洛外図の登場が16世紀初頭。その後、徳川政権ができると、「江戸図屏風」が描かれるが、その登場が17世紀前半。そして、各地の城下町でも、城下図屏風が制作されていく。古いものだと「江戸図屏風」とほぼ同時期の高松城下図屏風があるが、延岡城下図屏風が寛文〜天和頃、宇和島城下図屏風が元禄頃、最近発見された松山城下図屏風も元禄頃の成立と考えられている。藩主が制作させた城下図屏風の多くが、17世紀後半から18世紀初頭に集中していることになる。その時期は、洛中洛外図、江戸図屏風を経て、都市図屏風の裾野が地方へと広がった時期であり、現在の地方都市の原型ともいえる近世都市が成熟した時期ともいえるのだろう。