越智の随筆「ねさめのよまい」7

大洲領伊予郡郡中灘町出身の蘭方医、越智が書いた随筆「ねさめのよまい」には、地元の大洲藩医鎌田玄岱(玄台正澄)のことも記されている。以下、口語訳して紹介する。

私の生国大洲には、鎌田玄岱という医師がいる。若いときから遊学して帰省したところ、その父親が病気を患っていた。父親が玄岱に治療するように言ったところ、いろいろ手をつくしても治すことができなった。父親は激しく怒り、これしきのことをすぐに治せないようなら医者となることは難しいだろうと叱責した。玄岱はそこで大いに発奮してすぐに紀州華岡青洲に入門、しばらく修行して大洲に帰ったところ、病客が群集し長患いや持病でも少なからず治せるようになった。

大洲は四国遍路の道筋でもあったので、諸国から遍路する者の持病などを診察して、施療にも当たった。そうしたところ、右州(石州、石見国カ)の遍路の足が固まってしまい、疲れとなって歩けなくなり、車で修行を続けていたところ、大洲に到着して鎌田の高名を聞いて診察を求めた。玄岱はその者に治療を施して、ついに車を棄てて歩行できるようになり帰国した。ところがもとより極貧の者であったため鎌田に一銭の報謝をするこのがきなった。帰国した後近郊を見れば、加藤某の墓として大名らしい墓があることに気づいた。よくよく尋ねてみると、玄岱の主人はその加藤侯であったので、かねがね恩謝を忘れない寸志として毎朝加藤侯の墓の掃除などをして歳月を過ごすうちに、年紀が来て加藤侯の墓に大洲から代参の使者がやって来た。見れば掃除などが丁寧になされているのを見て、使者が怪しんで、どなたがこのようにきれいに掃除してくれているのかと近隣に尋ねると、某というものであると。そこでその者を呼び尋ねたところ、ただ玄岱の恩謝の寸志を申して平伏した。使者はそのことを帰国の後申し達したところ、玄岱も加増の禄を得てその土地の人間にも少しばかりの給米が毎年加藤侯より送られることとなった。その地の領主からも奇特の志と賞金を賜ったということである。「善事不出門」というが、善もいつしか顕然となるものである。陰徳陽報の著しきことを知るべきである。

ここで登場する鎌田玄岱とは、大洲藩医の鎌田玄台正澄のことと思われる。寛政6(1794)年生まれ。文化9(1812)年3月7日、19歳の時に紀州華岡青洲に入門、五年間の研鑽を終えて同14年に帰国している。華岡門であることからもわかるように外科と得意として、弘化2(1845)年刑死人の解剖を行ったほか、日本最初の陰嚢ヘルニア手術、乳がん手術時の止血方法の考案などに業績をあげた。また、玄台のもとには、西日本各地から学びにくる医師も多く、例えば熊本藩領からも学びにきていたことが近年明らかになっている。大洲の玄台塾は西日本の華岡門のセンター的な役割を果たしていたともいえそうである。

玄台の手術の症例は『外科起癈』10冊にまとめられているが、その患者の分布を見ると、もちろん伊予国内が圧倒的に多いものの、豊後国土佐国伯耆国備後国の患者もあることから、遍路の持病の治療を行っていたと「ねさめのよまい」が記していることもあながち誇張とはいえないように思う。「ねさめのよまい」には、右州(石州の誤記カ)の遍路の足を治療したところ、その遍路が故郷に戻ってから玄台の主家である加藤家の墓地があることを見出して、報謝のため毎日掃除するようになったことを記している。玄台の仕える大洲藩主加藤家の前任地が米子であることから、石州は伯耆の間違いで、遍路は伯耆米子から来ていたものと判断できる。調べてみると、米子の清洞寺跡という所に、後の大洲藩初代藩主となる加藤貞泰が父光泰の菩提を弔うために曹渓院を建て、供養のために五輪塔をつくっているので、遍路が掃除した場所とはこの五輪塔と考えてよいだろう。

ところで、この話しを大洲藩に詳しい知人に話したところ、『大洲藩編年史』の宝暦12(1762)年7月17日の項に「伯耆米子清洞寺、光泰墓所掃除料を願い出て、12両を寄付される〔加藤家年譜中泰武〕」という記事があるとご教示いただいた。遍路が米子に戻り、光泰墓所の掃除を始めたのはそれからかなり時が経っていただろう。加藤家が米子を離れてからも既に200年以上が経過している。それでも光泰の年紀に大洲藩の代参の使者が出ていたのだとしたら、大洲と米子の深い縁を感じさせる記事で、最近新聞記事となった大洲タンポポの話しなどもふと思い起こされる。