越智粔の手紙

先般紹介した大洲領伊予郡郡中灘町出身の蘭方医で、随筆「ねさめのよまい」を書いた越智。この越智が書いた手紙をある所で見かけたことがある。その手紙を意訳しつつ紹介する。

…(前略)…この間申し上げましたように「八家集」については、ここ数年来、好きな文章を書き写してきましたが、ご承知のとおり全くの暇なし。殊にこのあたりの村では写本師もいないため、困ったものです。そこで、老先生は既に「茅坤八宗集」をお持ちなので、「沈氏読本」の方をお譲り下されば、これにまさる喜びはありません。もっとも代金ですが、先生がお買いになった時の金額でお譲りいただきますようお願いします。浪華(大坂)でまた何かついでのある時にお求めいただけたら、現在の板は少々悪くなっていたとしても、御用には立つのではないかと愚考する次第。しかし、余りにも無理なお願いでどうかとも思いますが、急にこの本の文章を取捨選択して、私だけの読み本を作りたくなって。私のことをどうぞお笑いになって、お譲りいただけたら幸いです。


急に読みたくなった書物が手もとにないというのは、読書家にとって一番つらいところ。その辺は今も昔も変わらないと感じさせる手紙。この手紙の宛所、途中に老先生と記されているのが、大洲領伊予郡黒田村庄屋の鷲野蕗太郎(南村)。鷲野は文化2(1805)年生まれなので、越智よりも3才年長。大坂の儒学者篠崎小竹の梅花社で学び、帰郷。庄屋を継ぐとともに、自らの屋敷に家塾橙黄園を開き、数百人の門人を育てたという。漢籍を収集する蔵書家でもあり、地元で手に入らない書籍について依頼を受けて大坂から取り寄せたり、近隣の庄屋層に書籍を貸し出したりするこの地域の開かれた図書館的な家でもあった。

この越智の手紙に記されている「八家集」とは、おそらく「唐宋八大家読本」のこと。中国の唐・宋を代表する8人の名文家の文章を収めた書物で、清の沈徳潜(しんとくせん)が明の茅坤(ぼうこん)編の「唐宋八家文鈔」と清の儲欣(ちょきん)編「唐宋八大家類選」とからその粋を抜き、各編に主旨・評釈などを施したものである。越智は鷲野が既に茅坤編の「唐宋八家文鈔」を持っているので、「唐宋八大家読本」はぜひとも譲ってくれと懇願している。

手紙に出てくる写本師というのも面白い。越智は江戸・京都・長崎に長くいたので、それらの都会では、蔵書家から本を借り出すと、お金を払えばそれを筆写して本に仕立ててくれる写本師という商売が十分に成り立っていたのであろう。しかし、伊予に帰ってきてみれば、需要がないのか写本師はおらず、すべてを自分の手で書き写さなければならない。江戸後期の都会と鄙の文化環境の違いも手紙からは浮かび上がる。

しかし、文化環境は劣るかもしれないが、大坂の本屋から良書を多く取り寄せる鷲野の存在に象徴されるように、文化度まで都会に劣っているとはいえない。越智が帰郷しても鷲野を通じて本にアクセスすることができているのである。越智のような蘭方医が現れてくるのも、江戸後期に全国レベルでこうした知的社会が形成されていたことを背景に考える必要があるだろう。