越智の随筆「ねさめのよまい」5

越智は最後に、当時最も怖れられていた病気の一つであった天然痘の予防接種、種痘のことを取り上げている。

近来、西洋から牛痘種法が伝わった。かねがねこの良法を知った人が速やかにその種子(痘苗)を得て、多くの子どもたちに植えた。このことは日本人にとっても中国人にとっても有益で、損することはない。それなのに種痘のことを理解していない漢方医に疑わしいものだと吹聴する人が多いので、本当にこんな簡単なことで天然痘を免れることができるのかと、庶民が疑問を持ってしまうのはもっともなことである。医者で牛痘種法を拒む者は、たとえこれまでに幾千人の難病を救ったとしても、その罪過に比べればその功は失われると私は思う。これらのことを、幕府の官僚、幕府の医官に公明正大な心をもって聞いてみたいところである。蘭方の医術を見るに、無益なものでないことは、全国的に年を経るにしたがい広まっていることである。幕府医官で知識のある人はそのことを少しは考えてほしい。

嘉永2(1849)年、長崎のオランダ商館の医者モーニッケが、バタビヤから牛痘痂を取り寄せたことを契機に、種痘はようやく全国に広まり始める。 ところが、ちょうど同じ頃、江戸では漢方医蘭方医との対立が激しく、漢方医の政治工作の中で幕府医官の蘭方使用が禁じられたり、全ての医学書漢方医が掌握していた医学館の許可を得ることなど、蘭学の自由な研究が抑制されていた。越智の「ねさめのよまい」執筆は嘉永5年と推定されているが、漢方医蘭方医の対立は続き、安政5(1858)年になりようやく、神田お玉が池のほとりにようやく江戸の種痘所が設置された。越智は江戸の種痘所設置に尽力した箕作阮甫の弟子であることから、「ねさめのよまい」は、嘉永5年頃の種痘の導入をめぐる江戸の空気をリアルに伝えたものといえる。