名古屋の底力

東京出張のお供本は、青木健『江戸尾張文人交流録』であった。

松尾芭蕉を口火として、本居宣長滝沢馬琴葛飾北斎十返舎一九が十万都市・名古屋に遺した文化的な足跡を紹介している。といっても、単なる有名な江戸文人の紹介本ではない。風月堂、永楽堂、大惣という名古屋を代表する文化サロンを軸に、彼ら江戸文人尾張名古屋の文人、画家ががっぷり四つに交流していたことを描き出している。

江戸時代中期に京都に起きた出版ジャーナリズムが、江戸、名古屋へと波及していった時代。江戸文人も名古屋を新しい市場として無視できない存在になり、様々な形で新興の出版ジャーナリズムと関わっていく。

例えば、文化・文政期の江戸の出版ジャーナリズムが生んだ初めての職業作家ともいえる滝沢馬琴。筆1本で生計をたてる馬琴にとって、貸本屋が作家と読者を結ぶ強力なサポーターであった。馬琴は享和2(1802)年6月に名古屋を訪れているが、その時貸本屋の胡月堂大惣に立ち寄っている。馬琴は老主人の依頼に応えて「かりて損ゆかさるもの、ゆふ立の庇、雨の日のかし本」の広告文を記している。同時代の史料によると、当時の尾張貸本屋は62軒。貸本屋の繁栄に下支えされ、名古屋の出版業も急成長していく。

葛飾北斎が名古屋を訪れたのは、馬琴の10年後の文化9(1812)年、53才の秋。名古屋にしばらく滞在して、地元の文人・画家と交流した北斎は、後に名古屋の本屋永楽堂東四郎の提案により文化12年に絵手本『北斎漫画』を刊行している。『北斎漫画』は定期的に刊行が続き、完結はなんと北斎没後30年目の明治11(1878)年だったという。また、北斎は二度目の名古屋滞在中、文化14年に百二十畳敷きの紙の上に達磨を描いてみせるパフォーマンスもしたそうだが、そのプロデューサーも永楽堂東四郎。

江戸後期の出版業というと、江戸の一人勝ちだったような印象をもってしまうが、なかなかどうして名古屋の底力もあなどれないものがある。

今日買った本
中野三敏 和本のすすめ

和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

川本三郎 銀幕の銀座
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以上、明屋書店大洲店