創刊号 道後今昔記2

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名物の変遷ですか、昔はお土産品としては湯ざらし艾ばかりで名物はアンコロ餅と甘酒位であつた、アンコロ餅は後に湯晒し団子となり近頃は坊ちやん団子が出来ました、甘酒等は今では無く成りましたね、其後道後煎餅といふ安煎餅が出来ましたが此れも無く成りました、近頃は生姜糖だの、手拭だの、籠だのと種々なもので何處へ行つても有る様なお土産品や名物ばかりが多く成り本統の名物は全滅の形です


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…(中略)…現在の松ケ枝町にかためて移されたのです、松ケ枝町は当時と余り変りありません、松ケ枝町は元宝厳寺の寺域で三十余坊の坊地の址で雑木林や竹薮で在つたのを拓いて作つたものです、円満寺は随分有名な寺で在つたのだけれ共今では御覧の通り荒廃して終ひました、今の西湯の上の山は龍隠寺山と云つて山城の龍隠寺の元地です。
道後も考へて見れば随分変遷したものですな、河野全盛時代は一国の首都で現在の公園は其の居城で在つたそうで城は東向きに建つてゐたそうです、松山の高石垣や元の建物はこれを移したといふ事です。今市は年中の常設市場で随分と賑はつたと云ひますし今市の南の御出町といふのは城の搦手通りで松山迄大通りだつたといふ事で其の当時は随分大きい…(中略)…


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現在の鷺湯の西、山側沿ひの角に喫茶店が出来てゐるでせう、彼處は吾々子供の時には牢屋が在つて温泉場で悪事を働いた人々が入れられたものです、吾々も度々縛られて牢入りをしてゐるのを見受けました、彼の山側通りの街だつて明治初年頃は家も無く野壷が沢山並んで細い径で傘をさして二人とは通れぬ處でした。
現在の鴉渓(あけい)の在る處、つまり鮒屋別館一体も元は雑木原の様な處を私の親父達の手で拓いて彼んなに綺麗に成つたのです、昔のままといへば冠山の湯神社と其の南麓の神官の家位のものでせう。
世も変り人も代りして昔のことは見る影もなく…(下略)…


道後土産については、曽我鍛(正堂)の『道後温泉史話』(昭和13年発行)にも詳しく記されています。この資料はいつもお世話になっているある先生に教えていただきました。次回は昭和13年段階の道後土産を紹介してみましょう。