半井梧菴の蓄髪1

半井梧菴は今治藩医で、
伊予を代表する地誌である『愛媛面影』を編纂したことでも有名です。
その梧菴が文久3(1863)年に、
当時の医者が頭を剃って
出家した姿をしていることを不当として、
還俗願を提出しています。
この還俗願は今治藩で許可され、
以後梧菴の頭には髪が蓄えられます。
では、なぜ梧菴はこのような願いを出したのでしょうか。


幕末の医師の髪を蓄えるという行為、
このことについて氏家幹人氏の江戸の病 (講談社選書メチエ)に言及がありました。
それによると、
江戸時代の武家社会では、
医師は長袖者として低く見られていたとのこと。
長袖とは、鎧を着る時に袖を短くする武士に対して、
常に袖を長くしている公家、僧侶、神官、学者、医師、町人などのことで、
あざけりの気分をこめて呼ばれていたとのこと。
そのことを頭におくと、
藩医についても、武士身分ではあるものの、
長袖に剃髪した頭と見た目にもはっきり区別され、
他の藩士よりも低く見られていたことになります。
しかし、幕末になると、
医師の地位が向上していき、
幕府は多くの制度改革の中で、
ついに文久2年に奥医師の蓄髪を許可しています。
その翌年の半井梧菴の還俗願は、
幕府のこの動きを巧みに捉えて、
絶妙なタイミングで今治藩に願い出たものと考えられます。
たかが髪の毛、されど髪の毛。
梧菴にとっての蓄髪願は、自らのプライドをかけた願いだったのです。