夜は渡辺京二さんの逝きし世の面影を読む。
随分前に買った本ですが、
あまりに大部なので、あともう少しというところで、
止まっていました。
だから私がもっているのは、葦書房の旧版ですが、
最近平凡社ライブラリーから新版が確か出ているはず。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


この本の中に、宇和島藩士三浦家の庭にも植えられていた、
蝦夷菊についての記述を発見しました。
以前の蝦夷菊の記事はこちら http://d.hatena.ne.jp/rekisinojyubako/20060408


蝦夷菊がでてくるのは、「井関隆子日記」。
井関隆子は天保11(1840)年に、
長男の嫁の兄にあたる戸田氏栄(うじよし)の邸に招かれます。
戸田は五千石の旗本で、後年ペリーの第一回の来航の際、
応接にあたることになる人物だそうです。
ちなみに井関家も旗本。隆子は隠居の身。
その戸田家の「前栽」の様子が日記には次のように記されています。


あるじもとより植木をめでゝ、
むかひに棚をかまへ、陶物どもに植えたる草木いと多し。
はた右ひだりのめぐりに、蝦夷菊あまた植たる今さかりなり。


なお、蝦夷菊は井関家にも植えられていたようで、
その翌日隆子の屋敷でも咲き出しています。
隆子は蝦夷菊の由来とともに、
かきつばたや藤にまがうその紫色を賞美して、
あの未開の島にこんな花が咲くかと思えば、
一概にさげすむものではないと記しています。
蝦夷菊は最上徳内の数次にわたる蝦夷地見分でもたらされたもの。
その五十年後には江戸の庭々に根付き、
それとほぼ同時期、
参勤交代の武士の手により遠くは宇和島までいき、
可憐な花を咲かせていたということになります。