宇和島藩士三浦義信の職務日記、
「勤書日記書抜」をさらにめくっていると、
再び草木育種の記事が出てきました。
天保2年10月24日、12月27日の記事がそれです。


10月24日の記事
暮れ前に御休息に召され、
大屋形様のもとに設楽市左衛門より届いた
草木育種の本を私に読むように命じられた。


12月27日の記事
11月28日に大屋形様から
同役を通じて家で読むように渡された草木育種について、
熟読してみたところ、
なかなかすべてを覚えることは難しいので、
抜書したいと願い出た。
願いが認められ抜書して筆写したが、
それが本日までに終わったので、この本を返却した。


再び登場した草木育種は大屋形様こと、
6代藩主で既に隠居していた伊達村寿のもとに、
設楽市左衛門から送られたものとあります。
この設楽市左衛門は注目すべき人物です。
設楽市左衛門(1785〜1838)
名は貞丈。字は直之助。市左衛門は通称。
妍芳あるいは妍芳園と号す。
旗本で禄高は1400石。
屋敷は江戸我善坊谷(港区麻布)にあったというので、
宇和島藩上屋敷から程近いところです。
この設楽市左衛門は大名や旗本による本草学、博物学の研究会である
「赭鞭会」(しゃべんかい)の構成メンバーの一人として有名です。
著作には『蒲桃図説』刊本、『龍骨図説』(巻子本)があります。
本草学の研究をしていたとすると、
やはりその庭には植物であふれていたのではないでしょうか。
設楽市左衛門から草木育種が送られているということは、
村寿との間に園芸植物をめぐる交流があったと考えられます。
設楽市左衛門から送られた草木育種は、さらに義信に貸し出され、
義信はそれをなんとか理解しようと抜書しながら勉強に励んでいます。
こうした勉強のなかから義信のガーデナーとしての側面が形成されたのでしょう。