6代藩主伊達村寿の影響か、
園芸趣味があった三浦義信。
天保7〜8年の参勤交代で江戸にいる間も、
宇和島の屋敷に植えている園芸植物が気になります。
その留守を任されたのは、義信の五男で13歳の三千之助。
若いながら、父親の大事な庭の植物を必死で育てます。
例えば、天保7年12月5日付の妻久美宛の手紙。


福寿草を三千之助が掘り出し植え替えたところ、
二寸程、芽を出したとのこと。
この間、愛宕神社に参詣した時に、
福寿草がたくさん売っていて、
留守中の福寿草の世話の仕方について、
言っておくのを忘れたことに気づきました。
九月頃に掘り出し、
日当たりのよいところに植え替えれば、
早くふとり春には咲くと言うべきところ、
すっかり忘れてしまい、
後で言ってもとても間に合うまいとそのままにしていました。
三千之助はよく気づいてくれました。
村寿様が生きておられたら、
私も側勤めで宇和島にいて、
自分で手入れできたのにと思うととても残念です。


さすがガーデナー義信。
福寿草の育て方に一家言あります。
そして園芸好きで村寿公が生きていたなら、
きっと春先咲く花を見て喜んでくれたのに
という思いが再びこみあげてきます。
それにしても、三千之助。
蛙の子は蛙ともいいますが、
見よう見まねで植え替えたのでしょうか。