寛延4年2月1日の夜、
宇和島の火事で三浦家の屋敷は焼けてしまいます。
消防の組織と設備がしっかりとしていない江戸時代。
いったん火事が起こると火は瞬く間に広がって大損害となりました。
この日の火事でも、
藩の施設としては会所、郡会所のすべてが焼け、
その他にも御目見以上の藩士の屋敷108軒、
延命寺足軽長屋2組分、百姓家12軒、愛宕町19軒などが焼けました。


寛延4年3月21日に
義伯の妻が息子の義陳にあてた手紙には、
家を焼け出された三浦家の面々のうち、
義伯と妻はさしあたり分六方に身を寄せたことが記されています。
ところで、火事が起こった時、
義陳の妻お幸がどんなにがんばったかについては記しましたが、
4代当主で隠居の義伯の姿は見えませんでした。
この手紙には火事後の義伯の姿を次のように描き出しています。


おやち様(義伯)は機嫌のよいことがなく、
気も心も疲れ果てていたところに、
火事に遇ってしまいました。
火事でのぼせたためか、
口の中がとても痛むそうでとても難儀しています。
喜内(義陳の弟)はおやち様と私に
自分のところに来るように言ってくれますが、
おやち様はご存知のとおりのご気質。
結局は断ることにしました。
分六のところに居ることをあなたもどうぞご了解ください。


義伯は当時69歳。
義陳が江戸に行き不在となることで、
留守を任された精神的ストレスは相当にあったものと思われます。
そこに起こった火事。
かなり精神的にまいっている様子がうかがえます。
人の家に間借りでは気遣いも多いことでしょう。
これからどのように住む場所を確保するか、
そのことが課題となります。


※昨日の記述のうち、以下のように修正しました。
さいこうじ(場所不明)→さいこうじ(西江禅寺)